宮崎県立図書館

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Ⅰ 「瑛九さんのヒミツ」について

 瑛九(本名 杉田秀夫 1911-1960)は宮崎を代表する画家です。

瑛九の生前、県立図書館では瑛九の作品展を行ったり、瑛九デザインによる壁画が飾られ(後に火事で焼失)たりしていました。さらに没後は瑛九と親交のあった第23代図書館長中村地平の夫人が瑛九の作品『田園B』を寄贈し、その作品が県立図書館に展示(現在は県立美術館蔵)されている時期もありました。

 また、県立図書館には、1985(昭和60)年から1988(昭和63)年にかけて、瑛九の生家杉田家の持つ医学古刊本・文学・エスペラント・静坐関係、郷土資料、連歌・俳諧資料など貴重な文化資料が寄贈されています。この杉田文庫の創設者は、瑛九の父親、杉田直(なお・俳号は作郎)氏、寄贈者は瑛九の兄、正臣氏でした。
 杉田直日記(瑛九銀貨誤嚥)
 杉田直日記(瑛九銀貨誤嚥)


 瑛九の父、眼科医の杉田直氏は俳人としても知られ、祖先にあたる野田泉光院の修行・見聞録『日本九峯修行日記』を活字化した業績もある人物ですが、寄贈された杉田直氏自身の日記に、幼少期の瑛九が過って五十銭銀貨を飲み込み喉を痛めたエピソードが記されています。

 このように県立図書館と瑛九の生家、杉田家の縁は深いものがあります。

 

そこで、令和3年の瑛九生誕110周年を記念した県立図書館と県立美術館の展示にあわせ、一般の方から募り、二つの展示を観覧後、文献や視聴覚映像、Web情報等で瑛九のことを調べ、最終的にホームページに発表する「瑛九さんのヒミツ」を実施しました。参加された方は初めて郷土画家瑛九について知る方がほとんどでしたが、調べる過程で人間瑛九に魅了されていったようでした。
 下記が参加者の皆さんがそれぞれテーマ毎に調べた内容です。どうぞご覧ください。

 

Ⅱ 瑛九さんのヒミツ(受講者紹介文)

1 概要                                  

                         (山内 利秋)

  瑛九は宮崎市出身で、昭和初期から同30年代まで活躍した美術家である。その制作技法は多様な分野にわたり、同時代・以後の日本の美術界に大きな影響を与えた。

1930年代の日本のシュルレアリスム(超現実主義)においてはフォトグラム、フォトデッサンに前衛的な作品をもたらし、後にはエッチング、さらにリトグラフや油絵制作をも行った。また、美術批評も重要な仕事として取り上げられる。

宮崎においては、美術団体の立ち上げなど美術家としての活動のみならず、世界共通語であるエスペラントの普及にも尽力した。

 

 

年譜

 

明治44(1911)428日、宮崎郡宮崎町(現宮崎市)、眼科医杉田直(なお)の次男として生まれる。

 

大正8(1919)年、宮崎尋常高等小学校(現 宮崎市立宮崎小学校)に入学。

 

大正14(1925)年、日本美術学校洋画科に入学。ただし昭和2(1927)年に退学。

 

昭和2-3(1927-1928)年、この年アテネフランセでフランス語を学ぶ。また美術雑誌『アトリヱ』『みずゑ』等に美術批評を寄稿する。

 

昭和5-8(1930-1933)年、写真雑誌『フォトタイムス』に写真および写真批評を発表。

 

昭和9(1934)年、この頃から兄正臣の影響を受けてエスペラントに親しむ。

 

昭和11(1936)年、新時代洋画展同人となる。この時から瑛九(Q EI)の名を用いる。外山卯三郎氏の手によりフォトデッサン作品集『眠りの理由』を出版。

 

昭和12(1937)年、自由美術家協会創立参加、第1回展にフォトモンタージュ5点発表。第2回展をギャラリーブリュッケで開催。

 

昭和13(1938)6月、自由美術家協会を退会するが、2年後に改称された美術創作家協会の会友となる。

 

昭和14(1939)年、宮崎市で個展開催。

 

昭和15(1940)年、この頃から作品を制作しても発表しない。この秋「紀元二千六百年奉祝展」をみて貧弱な印象を受け、自分達の責任を痛感する。

 

昭和16(1941)3月、東京・真岡・軽井沢に滞在して風景画を中心に人物像や静止画を描く。4月、美術創作家協会展の開催に協力するが作品は出展しない。会の在り方を批判し、退会。

昭和17(1942),宮崎で点描画による作品を制作する。

 

昭和18(1943)9月、真岡の久保貞次郎宅でガラス絵を制作する。この年、画風は印象派から抽象的な傾向まで、色々な展開をみせる。

 

昭和19(1944)年、前年に引き続き4月頃まで抽象作品に打ち込む。5月に腸捻転の手術のため入院。7月には退院して制作を開始し、抽象的な作品から徐々にアンティーム(親密)な傾向を示す小品を描く。11月、再入院して手術。

 

昭和20(1945),1月、前年に患った腸捻転から回復して創作活動を行う。しかし、材料不足のため画材を自分でつくる。5月に宮崎県諸県郡野尻村(現 野尻町)に疎開してからは読書中心の生活。8月、終戦。

 

昭和21(1946)1月、宮崎県公会堂で日本共産党の集会と大演説会を聴き、数日後に入党。3月、新宮崎美術協会設立総会。5月にこの協会の第1回展。この頃自宅で文化講座を開催し、谷口ミヤ子(後の夫人)を知る。6月、共産党離党。8月、『日向日日新聞(現 宮崎日日新聞)』連載の小説「春の淡雪」の挿絵を丘好次のペンネームで描く。この時期からミヤ子夫人を描くようになる。

 

昭和22(1947)4月、宮崎エスペラント会の再組織に協力し、機関誌『ラ・ジョーヨ』を編集。エスペラント講習会を自宅で開催する。

 

昭和23(1948)8月、宮崎市の杉田家2階から同丸島町の市営住宅へ移る。9月に結婚。この年は夫人像を多く描き、写実的な傾向から超現実主義的、半具象的な作風へ。

 

昭和24(1949)年、美術団体連合展、自由美術家協会展に出品。自由美術家協会展出品油絵作品「正午」「街」「コレスボンド」「出発」。11月、久保貞次郎からエッチングプレス機が宮崎へ送られ、エッチングの試作を始める。12月、宮崎で「瑛九後援会」発足。

 

昭和25(1950)1月、「瑛九後援会」によって『芸術家瑛九』が刊行される。2月から8月までに200点くらいのフォト・デッサンを制作。10月上野松坂屋で第1回フォト・デッサン展を開く。第14回自由美術家協会展出品作品「海」「小さき生活」「キッサ店にて」。

 

昭和26(1951)4月頃、「デモクラート美術家協会」を結成。5月、宮崎県立図書館の子供室入口の壁画を完成させる。フォト・デッサン集『真昼の夢』を刊行。8月、宮崎より上京。埼玉県浦和市(現 さいたま市浦和区)に住む。新樹会に出品。第2回フォト・デッサン集「真昼の夢」出版。油絵「妻の像」「雲と水」等製作。

 

昭和27(1952)3月、エッチング集『小さな悪魔』『不安な街』を出版。デモクラート美術家協会第1回展出品。神田タケミヤ画廊でフォト・デッサン展。11月、宮崎県立図書館ギャラリーで個展開催。

 

昭和28(1953)8月、神田タケミヤ画廊でエッチング展開催。「鳥夫人」「道のプロフィル」などエッチング多数制作。

 

昭和29(1954)8月、神田文房堂で油絵展開催。油絵「赤い輪」「駄々つ子」フォト・デッサン、エッチングを多数制作。

 

昭和30(1955)1月、高島屋でフォト・デッサン展、4月宮崎県立図書館ギャラリーで個展開催。

 

昭和31(1956)2月頃、池田満寿夫が瑛九宅を訪ねる。3月頃、浦和の印刷業者金森茂の所へ通い、石版技術を研究する。4月、アメリカの写真雑誌"Salon Photography"にフォト・デッサンが紹介される。

 

昭和32(1957)1月、エアコンプレッサーを用いた吹き付けによる作品を制作し始める。4月、タケミヤ画廊でリトグラフ展、6月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。第1回国際版画ビエンナーレ展にリトグラフ作品「旅人」「日曜日」出品。他にエッチング多数制作。

 

昭和33(1958)年5月、武生市公会堂でリトグラフ展、8月大阪白鳳画廊で泉茂とリトグラフ展開催。油絵「丸1」「丸2」「午後」等制作。

 

昭和34(1959)1011日、埼玉県大宮市立大宮小学校(現さいたま市立大宮小学校)での現代日本洋画展にリトグラフ出品。油絵「黄」「翼」等制作。

 

昭和35(1960)17日、浦和中央病院再入院。2月銀座兜屋画廊で個展開催。310日心臓機能不全のため神田淡路町同和病院で逝去。享年48歳。

 

 

参考文献

東京国立文化財研究所美術部編1962『日本美術年鑑昭和36年版』, p.134

 東京国立文化財研究所「物故者記事 瑛九」東文研アーカイブデータベース

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9217.html(参照2022.01.26) 

高野明広・小林美紀・大久保静雄・梅津元・山田志麻子編『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館・埼玉県立近代美術館・うらわ美術館・美術館連絡協議会, 2011, p.292

2(1)瑛九をめぐる人物(相関図)宮崎編

瑛九をめぐる人物(相関図)宮崎編

  (2)瑛九をめぐる人物(相関図)県外活動編 
瑛九をめぐる人物(相関図)県外活動編


3 宮崎県立図書館と瑛九

(増田 智美)

 (1) 杉田家と県立図書館

    瑛九の父、杉田直の日記にこんな記述がある。

1923(大正12)621日条 夜秀夫同道図書館へ行、日本烈女傳及道歌物語借来ル

(『直日記』大正12621日)

   借りた2冊の本は、教養人として知られた杉田直が改めて借り出すものとは思われず、おそらくは、幼くして実母を亡くし、新しい母になじめず癇癪を起こしがちであった息子(当時12歳)の心を慰めるために求めたのではないだろうか。

 

   杉田直の父は国学者、母は「当時の人としては珍しいほどの読書家」であり、そのふたりの子である父・直も同様に熱心な読書家であった。

そんな杉田家にとって、宮崎県立図書館は身近なものであった。12歳年長の兄、正臣も幼少時より県立図書館に通い始めている。

   瑛九も例にもれず読書家であり、兄への手紙には頻繁に読んだ本の感想などが書かれ、周囲の人間には(あれだけの本を)「いつ読んでいるのか」と言われていた(また一方で、「いつ描いているのか」と言われるほど創作意欲も旺盛であった)。
 

 (2) 子供読書室入り口壁画と開館50周年ポスター

   昭和26(1951)年、宮崎県立図書館は利用者の増加に対応し、増改築工事を行った。それに際し、子供読書室の入り口を取り 囲む壁画を、瑛九に依頼している。これは残念ながら、昭和34(1959)年に県立図書館の建物が焼失した際に失われてしまった(同時にフォトデッサンも多数失われた)。当時の白黒写真は、海と空、海鳥やヨット、そして魚など生き物と戯れる子どもたちが描かれていたことが確認できる。どんな配色だったのだろうか。宮崎県立図書館の館報「緑陰通信」第1号において「私の推薦図書」のコーナーに瑛九が推薦した本は、ホーマー・レイン『親と教師に語る』だった。子どもの人生を幸福に発展させていくべきだとする内容を紹介する彼の文章からは、子どもへの温かいまなざしが感じられる。そうした思想があってこその、子供読書室入り口壁画であったろうと思われる。リニューアルオープンを伝える「緑陰通信」第7号には、小学4年生が「ろうかをよこぎってまっすぐ歩いていくとおもしろい絵が入口にまあるく、わのようになっている」とある。当時の子どもをわくわくさせる入り口になっていたのではないだろうか。

 

  
 
児童図書室入口壁画

 児童図書室入口壁画

 昭和
27(1952)年に宮崎県立図書館は開館50周年を迎えた。この記念ポスターはアトリエに保存されていたのを県立美術館が譲り受けたもので、同時に寄贈されたスケッチブックには、ポスターや壁画の下書きが残されている。 






50周年ポスター

       50周年ポスター



 (3) 
県立図書館での絵画展

 宮崎県立図書館での展覧会は瑛九の生前、5回行われたようである。最初は昭和26(1951)816日から20日。この年の5月に図書館の児童読書室入口壁画を提供した縁からであろうか。日向日日新聞(同年816日付)の記事によると、「出品はいままで宮崎で発表されていない油絵、フォトデッサン、水彩等約四十点」。2回目は昭和27(1952)321日から24日。エッチング、リトグラフ、フォトデッサン、ガラス絵、油絵35点。同じ年、1116日から20日にも、油絵、水彩、フォトデッサン、エッチング等30点。昭和30(1955)421から25日まで。このときは帰宮し、21日には本館ホールで美術講演会が行われた。27日には、当時の図書館長・中村地平主催の歓迎の宴に出席した。展覧会パンフレットによると、展示作品は以下の通り。
   油絵、「訪問」「小春日」「窓」「レモンみのる村」「花の散歩」「南の風」「赤い矢」「春の田園」計8
   エッチング、「動物園」「白夜」「スフィンクス」「たそがれ」「流れの中のプロフィル」「プラカード」「母」計7
   フォト・デッサン、「夕ぐれのよろこび」「不安な街」「梯子の上で」「深夜のうた声」「自轉車(黑)」「不思議な期待」「シグナル」「ひるね」「窓の二人」「雪の夜」「バレーへの招待」計11
 昭和32(1957)61日から6日。このときは帰宮していない。「瑛九近作個展」として油絵3点、リトグラフ20点。瑛九の死後、昭和37(1962)47日から11日に、「瑛九、塩月桃甫遺作展」として、18点の遺作が展示される。 また、昭和43(1968)627日から29日には民芸の店「杉」と共同で、「第1回瑛九遺作展」開催。その後も昭和50(1975)年や平成3(1991)年、平成5(1993)年にも作品展が開かれている。

 

(4) 「田園B」

   宮崎県民にとって、瑛九と聞いて思い浮かべるのは幻想的な水玉が光り踊る作品、それが「田園B」である。
 宮崎県立図書館の第23代館長であった中村地平氏の夫人により、氏の没後、昭和38(1963)年、図書館に寄贈された。昭和63(1988)年、県総合文化公園に移転した県立図書館、正面入口ロビー左側壁面に飾られていたこの作品は、県民にとって「瑛九といえばこれ」という顔となっていたのである。その後、県立図書館の隣に県立美術館が建ち、「田園B」はそちらで所蔵されることになった。同じ敷地内の芸術劇場の緞帳にもこの絵が採用されており、「田園B」はまさしくこの文化公園を代表する作品である。

 

田園B(宮崎県立美術館所蔵)

 田園B(宮崎県立美術館所蔵)

 
田園B緞帳(芸術劇場)

芸術劇場演劇ホール緞帳(写真提供:公益財団法人宮崎県立芸術劇場) 


参考文献

『杉田直日記』(宮崎県立図書館所蔵)

杉田正臣著「思い出すことなど(2)」『眠りの理由』第2号, p.45-48,1966,

南邦和『放送対話集 宮崎19681971鉱脈社, 1972, p.302

杉田正臣「図書館の思い出」『緑陰通信』第4号p.9, 1950

宮崎県立図書館「記念祝賀行事」『緑陰通信』第7号p3, 1951

宮崎県立図書館編『100年のあゆみ』宮崎県立図書館, 2003, 239

宮崎県立美術館 小林美紀編「生誕110年記念瑛九展 Q Ei 表現のつばさ」小冊子宮崎県立美術館, 2021,p.30

DNP大日本印刷,「瑛九≪田園B≫ 発光する反近代 石川千佳子」アートスケープ,

https://artscape.jp/study/art-achive/10128470_1982.html(参照2021.11.28)

○山田光春『瑛九年譜』山田光春, 1966, p.22

○杉田正臣『父/暁天/瑛九抄』鉱脈社, 2000, p.400

○宮崎県立美術館編『魂の叙情詩 瑛九展』宮崎県立美術館, 1996, p.212

○高野明広・小林美紀・大久保静雄・梅津元・山田志麻子編『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館・埼玉県立近代美術館・うらわ美術館・美術館連絡協議会、2011, p.292

○日向日日新聞 昭和26(1951)816日付

緑陰通信


 
4 瑛九と家族 
(中嶋 未歩)

 (1) 継母栄  

 杉田家では、長男正臣の次に四人の妹(君・千枝・十三・笑)、その後に瑛九、そして瑛九の妹、五女の杉が生まれた。瑛九は7人兄姉妹の次男杉田秀夫として待望の男の子でとても可愛がられていた。

   秀夫が3歳のときに実母・雪が亡くなり5歳のときに継母・栄がきている。秀夫は、泣きはじめると1時間泣きやまず、他の人からいろいろ言われるのが嫌で学校にも行かないことが度々あるなど手を焼き、栄が「私は三十六才にもなって、七人の子供のいる家庭に入ったのですから、みんなが果して続くだろうかと、云っていたそうです。私にも心配はありましたが、子供達とは真の母子のようになって一生を通しました。」(注・1)と述懐しているように実母のように接した。瑛九が「一人前のエカキ」になったときに一番心配をかけた母をひきとって少しでも孝養したいと言ったのは昔を思い出してのことであろう。

 

(2) 瑛九と兄正臣

妹の笑が「Qが久しぶりに東京から帰ると、きわめて自然に先づ最初に兄の部屋に向かうのだった。他の者は眼中にはなかった。」(注・2)と記しているように11歳年長の兄正臣を秀夫はとても慕っていた。それは正臣にあてた多数の手紙の中でも見受けられ、経済的支援を行っていた兄への心からの感謝の念が綴られている。なお、瑛九に宛てた家族からの手紙が残っておらず、家族や友人たちとのやりとりは、瑛九が書いた文面から類推するしかない。

折角入学した中学を一学期でやめたいと言った秀夫を父直は心配して正臣に相談している。正臣が秀夫を呼んで理由を聞くと、東京の美術学校に入学したいと答えたため、父を説得し一緒に上京するなどして、秀夫は日本美術学校に入学できることとなった。しかし瑛九は後に日本美術学校も退学することとなる。 

このほか、瑛九は姉君が嫁いだ郡司家に住み、作品を制作したり、親交を深めたりした。家族から勘当されることもなく、自由に自分の思い通りに絵を描いてこられたのは、友人の存在もあったかと思うが家族の存在が大きかったと思われる。

  

引用文献

1.杉田栄述「思い出」『眠りの理由』第2, p.43-44

2.日高笑子著「瑛九さんと兄妹たち」『眠りの理由』第5, p.46-49

 

参考文献

小林美紀「アーカイヴに見る瑛九」『宮崎県地方史研究紀要』第三十八輯, p21-40

杉田正臣著『父/暁天/瑛九抄』鉱脈社, 2000, p.400

杉田正臣編著『瑛九抄』,  杉田眼科内「根」発行所, 1980, p.53


5 妻ミヤ子から見た瑛九                                

(杉本 美紀)

 

 瑛九と後に妻となる谷口ミヤ子の出会いは、昭和21(1946)5月頃、秀夫(のちの瑛九)が始めたサークル活動「戦後の文化を語る集まり」にミヤ子が参加したのがきっかけだった。このとき秀夫は、日本は敗戦したのだから、みんな自由に自分の思うとおりの行動をしてもよい。男女や身分の上下、子どもとか年寄りとかに関係なく「平等」なのだから自分の主張を通して欲しいとミヤ子に語ったと言う。エスペラントも上下の関係がなく使える言語だということで学んでいた。

 

ミヤ子は初め瑛九の妹の杉田杉と知り合い、付き合いが深まっていくうちに瑛九とも言葉を交わすようになった。エスペラントを習ったり、たくさんの本の整理を手伝ったりするうちに親しくなっていった。

坊主頭で極度の近視のため分厚い眼鏡をかけた秀夫だったが、杉からの申し出もあったが、「すごい度の眼鏡をかけた神経質そうな坊主頭の青年で怖そうな感じでしたが、その眼鏡の奥の目がとても温かいなあ、という好印象をもっていました」(注:1)。昭和23(1948)年秋に結婚した。瑛九37歳、ミヤ子30歳の時だった。

 

二人は戦後初めて建てられた宮崎市内丸島町の市営住宅に移り住み、夫婦というより友人といった感じの共同生活が始まった。二人の会話はエスペラントで交わされ、家の表札は、本人が瑛九という名前を大変気に入っていたので「瑛九」としていた。「水晶玉がたくさん集まってキラキラ輝く」という意味の名前が、俗悪なものを知らない純粋さを持っていた瑛九にぴったりだとミヤ子もこの名前がとても好きだった。瑛九は「戦と病気は僕をアイマイサの中にひたしたが、エスペラントとけっこんが僕の方向をすこしずつ明確にして行きつつある」と山田光春あての手紙(昭和24(1949)年)に書いている。

 

 瑛九夫妻は宮崎県立宮崎大宮高校などでエスペラント講習会の講師もしていた。当時この講習を受けていた鈴木素直は、「講師としても卓越した才能と深い愛情の持ち主であることに若い受講生は魅せられた。あの度の強いめがねの奥にひそむきびしさと暖かさは奥さんの優しさとともに、私たちの人生に強い影響と励ましを与えた。」(注:2)と当時を振り返る。

 

二人の住まいを訪ねて行くと、「二人のびっくり箱みたいな部屋」からは、いつ制作するのかわからないほど作品が次々に生まれていた。前日には机の上に転がっていたピン、ぜんまい、レース、切り紙など決して高価で特別ではないものたちが翌日訪れると一枚の白と黒の別の世界を作っていて、十五、六歳の高校生だった彼らは、興奮し、夢みるのと似た感じだったと語る。

 

ミヤ子は、内職として下駄の鎌倉彫をするなど物心両面で瑛九を支えた。二人は昭和27(1951)年埼玉県浦和市仲町に転居した。ミヤ子はそこから東京の駿河台下まで写真材料を買い出しに行き、瑛九はフォト・デッサンの材料さえあればご機嫌で、深夜から早朝にかけて仕事に熱中していた。まるで、おもちゃを与えていれば遊んでいる子どものようで、「瑛九とは、小さな子供を相手にしているような感覚でいなければしょうがなかった。」(注:3)

 

フォト・デッサンは現像液の液温の関係で秋から冬が制作のシーズンのため、雪がちらつく冬の深夜に庭に出て、井戸のポンプの柄を交互に押しながら現像と定着の後の水洗いをすることもあった。寒さの中のつらい仕事であった反面、瑛九の仕事には口を挟まないと決めていたミヤ子にとっては、制作活動に少しでも参加できる喜びがあったという。

 

瑛九はいらないところに無駄な神経を使わない人だったため、服装に関しては無頓着のようで、黒いマントを着て魔術師のようだった。ジャンパーを着た姿が大工さんのようだったなどと言われている。一方、制作中は、今着ている服を着替えると今まで描いてきたものが途切れる、絵の具が着いた服が画面につながっていると信じていた。そのため上野の美術館に出かけるときも服を着替えなかった。今、描いている作品に対する純粋で一途な気持ちを感じずにはいられない。

 

浦和の瑛九のアトリエには、池田満寿夫、靉嘔(あい おう、本名・飯島孝雄)、河原温など1020歳も年下の若き芸術家たちが彼を慕い通い詰めるようになっていった。瑛九は、師と弟子のような上下関係や押しつけのようなことが嫌いで、彼らを若い友人と呼んだ。作品については徹底的に突く、それでいて、それぞれに与えられた物があるのだから自分を大切にするようにと常々言っていた。彼らが来ると、「おーい、欠食児たちが来たよ。」と温かく迎え、ミヤ子婦人の手料理や焼酎を振る舞い、絵が売れなければ自分が買ってやるからと面倒見のいい一面もあった。

 

 昭和32(1957)年からは再び油絵に戻り、次第に没頭していく。

「アイデアが湧いてきて湧いてきてしょうがない」といって、無我夢中でキャンバスに向かうようになる。何ものかに憑かれたように我を忘れて描きまくるようになっていった。

昼も夜もなく描き続ける瑛九に、中断したらと言うこともできず、食事をすすめるタイミングがなかなかつかめないため、テーブルに食事を用意しておいて、いつでも食べられるようにしておいた。フォト・デッサンの時には井戸端で作業中話をしながら手伝っていたが、点描に入ってからは、そんな状態でもう話をすることもなかった。

 

「ようやく到達したよ」といっていた点描の大作「つばさ」制作開始から1ヶ月程たったある日、高い台に上った足がむくんでいることに気づいたミヤ子が嫌がる瑛九を無理やり病院に連れて行くと重い腎臓病にかかっていた。

 

次々にわき上がるアイデアが瑛九の体に無理を重ねさせ、あだとなってしまったようだ。とても不器用で、傘を差すにも後ろにさしずぶ濡れになってしまう。運動神経がとても鈍くて自転車にも乗れない。そんな人があんな絵を次々と描いていたのだ。無心にキャンバスに向かい描いてる姿を見るとミヤ子は感動して、何も言えなくなってしまうのだった。

 

瑛九最後の作品となった点描の大作「つばさ」。身を削るように無数の点を描き続ける瑛九をずっとそばで見守っていたミヤ子は、「瑛九はこの中に入っていったのだと思っています。つばさに乗ってね。」(注・3)と語った。

                                                

 

引用文献

1.杉田都「純真な魂」『対談集 美術家の証言(NHK日曜美術館10)』学習研究社 1979, P.52

2.鈴木素直著「瑛九・鈔」『鈴木素直』鈴木素直を本にする会, 1990, P.72

3.「都夫人インタビュー 瑛九という人」『版画芸術』112, P.77

 

参考文献

山田光春「瑛九年譜」『みづゑ』第891P.37

山田光春著『瑛九 評伝と作品』青龍洞, 1976, P.478

杉田正臣著『父/暁天/瑛九抄』鉱脈社, 2000, P.400

杉田都述「純真な魂」『対談集 美術家の証言(NHK日曜美術館10)』学習研究社, 1979

,P.5153

鈴木素直を本にする会編『鈴木素直-その素顔をさぐる』本多企画, 1990, P.223

「都夫人インタビュー 瑛九という人」『版画芸術』112, P.7477


6 瑛九とエスペラント                     

(山内 利秋)

 

(1) はじめに

瑛九が昭和9(1934)年に描いた油彩画に『ザメンホフ像』がある。

描かれているポーランドのユダヤ人医師、ルドヴィコ・ザメンホフ(LudovikoLazaro Zamenhof; 1859-1917) はエスペラント(Esperanto) の創始者であり、国際共通語を目指したその活動は、20 世紀初期の世界において大きな影響があった。日本では明治39(1906) 年に歴史学者の黒板勝美らによって日本エスペラント協会が設立され、大正デモクラシー期から昭和初期において、多くの知識人らによって広められた事が知られている。地方においてもこの活動は拡散され、例えば宮沢賢治はエスペラントで記述した詩を遺している。

 

(2) 宮崎県におけるエスペラントとザメンホフ像

大正8(1919)年、宮崎県内では武者小路実篤が木城村(現木城町)に建設した「新しき村」において、実篤の勧めによって作家・翻訳家である木村荘太がエスペラント講習を積極的に行っている。

昭和6(1931)年になると宮崎市で宮崎エスペラント会が結成され、さらに昭和8(1933)年には瑛九の実兄である杉田正臣がこの活動に参加し、同市橘通にある杉田眼科医院が事務局となった。瑛九は兄からの影響を受けて翌年からエスペラント会に参加し、作品制作の傍ら、宮崎でのエスペラントの普及に努めている。瑛九による『ザメンホフ像』は昭和9(1934)年頃に制作され、実家である杉田家にあったが、現在は宮崎県立美術館が所蔵している。同様のザメンホフ像には瑛九以外の作家による作品も確認されており(山内他)、実際にエスペラント会の会合等で同様の肖像画が掲げられている写真が存在する(高野他2011)(註・1)

複数のザメンホフの肖像は同じ構図で描かれ、背景や陰影についても共通性が高いものがあるので、これらは同一の画像をもとに制作されているのがわかる。実際、この構図とほぼ同じザメンホフの肖像写真が存在しており、宮崎県立図書館の杉田文庫に所蔵されているEdomond Privat "Vivo DeZamenhof"(1923) 及写真び同書の松崎克己訳・日本エスペラント学会刊行による『ザメンホフの生涯』(1932)にも同じ肖像が図版で掲載されている写真2-2)。当時の地方での出版・流通事情を考慮するならば、エスペラント関連図書の入手経路は限定されており、この図書のどちらか、あるいはどちらもが複数のザメンホフ像の原画となった可能性が高い。邦語訳版の見返しには杉田正臣がこの図書を昭和8(1923) 年に入手した手書きの記録が遺されている。

 

(3) 2次世界大戦後の宮崎でのエスペラント活動と瑛九

2次世界大戦後の昭和22(1947)25(1950)年、瑛九は講習会や機関誌編集等、エスペラント活動に極めて精力的に関与していた(鈴木1980)。鈴木素直によると、新制高校として発足した宮崎県立大宮高校や大淀高校(現在の宮崎県立宮崎工業高校・同宮崎農業高校)の文化祭やエスペラント同好会の講師として、夫人を伴って講師として出かけ、若者達と交流していたと言う(,p.5253)

       2次大戦後ではあるが、崎村家では瑛九が同家をよく訪問し、エスペラント仲間であった崎村徳次氏と歓談しレコードを聴いていたという逸話が遺されている。資料保全を行った際にも実際に多くのSP 版レコードと蓄音機が遺存していた。そうした点から、同家は瑛九やエスペラントとの関係が深かったと言えるだろう(註・2)

       

 

1:エスペラント会の会合では毎回記念撮影が実施されており、これらの写真が宮崎エスペラント会に遺されているが、そこにはザメンホフ肖像が毎回掲示されているのが確認出来る(小林美紀氏の調査資料による)。宮崎市内で筆者らが確認したザメンホフ像はエスペラント会に初期の頃から参加していたメンバーであった崎村徳次が所蔵していたものであり、エスペラント普及にあたって会のメンバー等に対して配布されていた可能性が高い。

 

参考文献

鈴木素直『瑛九・鈔』鉱脈社, 1980, p.63

高野明広・小林美紀・大久保静雄・梅津元・山田志麻子編『生誕100年 瑛九展』宮崎県立美術館・埼玉県立近代美術館・うらわ美術館・美術館連絡協議会, 2011, p.292

山田光春著『瑛九 評伝と作品』青龍洞, 1976, p.478

 


7 多彩な表現方法

(杉本 美紀)

 

  瑛九は48年の生涯の中で2,000点以上の作品を残した。その表現方法は油絵、フォフォトコラージュ、フォト・デッサン、エッチング、リトグラフなど多岐にわたり、表現様式も印象派、シュルレアリスム、キュビスム、抽象とめまぐるしく変化した。自分の感じた美を表現することをひたすら追い求め、日本の前衛美術の先駆的な存在となった。

 

 彼の作品のうち、現存が確認できる最初のものは、大正141925)年日本美術学校洋画科在籍中に描かれた『秋の日曜日』である。この絵にはQEiのサインはまだなく、作品の裏側に「1925.11.ひでを」と書かれている。この後も油絵は生涯取り組み続けることとなる。昭和21927)年5月には、日本美術学校を退学して、東京と宮崎を往復しながら油絵制作に専念し公募展に応募するが、このときには入選することはなかった。

 

いつから写真に興味を持つようになったのか、叔母の手に職をとの言葉に背中を押されてか、昭和51930)年にはオリエンタル写真学校に入学。写真技術の枠に収まらず、印画紙上に直接ものを置いたり、植物などの自然物を置いたりして感光させ、イメージを生成するフォトグラムという表現方法に興味を持ち、制作・研究を始める。同じ年には、写真雑誌「フォトタイムス」に自作のフォトグラム作品5点と解説、写真批評を発表するまでになる。

 

フォトグラムは「透明、半透明、不透明、あるいはさまざまな形態をもった物体を、光源と印画紙のあいだに介在させるため、技法は写真のものながら、さまざまなイメージを自由に制作することが可能」な表現法。(注・1)1920年代初頭にアメリカの画家マン・レイなどが大量に制作し、以降、一般的になった。瑛九はこのフォトグラムに興味を持ち、当時住んでいた間借りでは、写真の仕事が思うように進められないため、一軒家を借り、暗室やスタジオ風の部屋を作って、本格的に取り組むことにした。

 

印画紙に光をさえぎるためにのせるものに、デッサンした絵を切り抜いた型紙や曲げた針金、写真、ヘアコームなど身近な素材を用いたり、市販のライトに金属のキャップを自作し光を調節して感光させるなど、独自の表現を模索しながら試作を繰り返す。

 

瑛九はフォトデッサンの技法と精神について、「ぼくは今までの概念に当てはまらないものを表現したい。根本は光をさえぎったり、光を強く当てたりするところをつくって、欲しい画像を形成しようと精神を集中する絵画的な造形精神である。」(注・2)と語っている。

 

昭和111936)年には、画家の長谷川三郎、美術評論家の外山卯三郎の勧めもあり、これらの作品を印画紙を使ったデッサン、すなわちフォト・デッサンと名付け、作品集『眠りの理由』を刊行。また瑛九と名乗り始めたのもこの頃からである。

 

瑛九は版画でも多くの作品を世に送り出しており、昭和251950)年にはエッチング(銅版画)を始めた。エッチングとは、「酸で図柄を銅板に腐食させる銅版画の一技法」(注・3)銅板などに耐酸性の防蝕剤を塗布して乾燥させたグランドの上から、ニードルなどの尖った道具で引っ掻いて描画した後、腐蝕液に浸すとグランドが剥がれて金属が露出した部分のみが腐食によって凹む。グランドを取り去った版の凹部にインクをつめ、余分なインクを拭き取って、プレス機にかけて印刷する。瑛九は古いエッチングの技法の書かれたパンフレットを頼りに独学で制作を始め、試作を重ねて、昭和271952)年にはエッチング集「小さな悪魔」「不安な町」を刊行するなど、多数制作している。

 

昭和271952)年、兄正臣に送った手紙には「ボクは今沢山かいています。主として油絵とエッチングとフォトデッサンです。」(注・4)とあり、エッチングの制作と同時に油絵や、フォト・デッサンも並行して精力的に制作していることがわかる。

 

さらに、昭和311956)年には、リトグラフを浦和の石版画職人の金森茂氏に習う。

はじめは版を描いてきて、印刷を頼んでいたが、自身で刷りまでも習得していった。重く厚い石灰岩に版を描き、プレス機で印刷をするため、肉体労働に慣れない瑛九は、疲労から体調を崩すこともあったが、翌年4月にはタケミヤ画廊にてリトグラフ展を開催し、金森氏を「5色か6色ぐらいで刷り合わせてあり、みんなケントウが合っていて、10年修行した者でも難しいものでした」(注・6)と驚かせるほどだった。昭和311956)年12月に友人木水育夫宛の手紙に「リトにとりつかれてなかなか脱出できません。全くリト病です。」というほど熱中したリトグラフであったが、全作品約150点は、ほぼこの2年間のみに集中して制作されている。

 

昭和321957)年エアコンプレッサーによる油絵を始める。フォト・デッサンで型紙を用いて光で表現していたように、切り抜いた型紙にエアコンプレッサーで絵の具を吹きつけて描いた「森の中」、「愛の歌」。油彩とエアブラシを使った「月」などもあるが、次第に絵筆一筋による油絵へと戻っていく。

翌年「まつり」「丸のあそび」では無数の丸が画面を覆い尽くすようになる。その一つ一つの丸は、輪郭を描き濃淡や陰影を付けて丹念に書き込まれている。「飛び散るはなびら」では輪郭がギザギザとし、「嵐」では平筆のタッチで描かれたような四角い形が風に吹かれるような方向性をもって描かれている。次々に描く作品で、何か新たな表現を探しながら実験しているように感じられる。丸は次第に小さく粒子のようになり、「むれ」「雲」「群」は同じような色調の点描で描かれながらも作品は次第に大きくなっていく。

 

昭和331958)年からは点描による油絵大作シリーズの制作に専念。「田園」「田園B」そして200号の大作「つばさ」を描き上げる。

 

生涯をかけて、油絵、フォトモンタージュ、フォト・デッサン、エッチング、リトグラフと次々に新しい表現方法をほぼ独学で身につけ、独自の表現へと昇華させていった瑛九であったが、表現についての考えを雑誌『アトリヱ』に寄せた「フォト・デッサン」の文末で

「新しいテクニックはそれだけではただ何ものをもかたることはできません。表現意欲が色々のテクニックを盛り上げていくのです。(中略)出来るだけ色々なものに手をだして実行して自己を発見する方が、自然な気がするのです。何も早くから自己限定する必要もないのではないか、という気持ちです。」(注・7

と語っている。フォト・デッサンの解説文の結びではあるが、美しいものへの表現意欲に突き動かされ、様々なテクニックを学び、模索しながら自己の表現の可能性をひたすら追い求めた瑛九の姿に重なるものがあると感じる。

 

 

引用文献

1. 大日本印刷「アートワード フォトグラム」artscape

https://artscape.jp/artword/index.php<2021-11-27閲覧>

2. 鈴木素直を本にする会編『鈴木素直-その素顔をさぐる』本多企画, 1990, P.75

3. 佐々木英也監修『オックスフォード西洋美術事典』講談社, 1989, P.193

4. 杉田正臣著『父/暁天/瑛九抄』 鉱脈社, 2000, P.335

5. 山田光春著『瑛九 評伝と作品』 青龍洞, 1976, P.402

6. 瑛九「フォト・デッサン─印画紙を使うデッサン─」『アトリヱ』336, P.78

 

参考文献

山田光春「瑛九年譜」『みづゑ』第891, p.37

山田光春「資料再編・瑛九の評論活動」『みづゑ』第801, p.38-53

小林美紀「アーカイヴに見る瑛九」『宮崎文化講座研究紀要』第三十八輯 p21-40

大日本印刷「アートワード フォトグラム」artscape,

https://artscape.jp/artword/index.php(参照2021.11.27)

鈴木素直を本にする会編『鈴木素直-その素顔をさぐる』本多企画1990, P.223

6. 佐々木英也監修『オックスフォード西洋美術事典』講談社, 1989, P.1336

7. 杉田正臣著『父/暁天/瑛九抄』 鉱脈社, 2000, P.400

8. 山田光春著『瑛九 評伝と作品』青龍洞, 1976, p.478

9. 瑛九「フォト・デッサン―印画紙を使うデッサン―」『アトリヱ』第336 P.75-78


 

8 瑛九のフォト・デッサン

(松下 隆一)

 

1936(昭和11)1月、宮崎の杉田家の真向かいにある「ふみた写真館」で、杉田秀夫は写真館の主人府味田のほか、妹の杉、甥の郡司盛男等を助手にし、時に何時間も食事もとらず徹夜し数日制作を続け、できあがった作品数十点を携え上京した。

 誕生したその表現は画家の長谷川三郎、美術評論家の外山卯三郎の高い評価を得る。4月に銀座紀伊國屋で「瑛九のフォト・デッサン個展」を開催、作品集『眠りの理由』(限定40部)が刊行され、杉田秀夫は瑛九と名乗るようになる。

 フォト・デッサンとは何か。瑛九の造語である。もともと、カメラを使わず、印画紙の上に直接物をおき、光をあてて現像する方法をフォトグラムといい、1920年代にラースロー・モホイ=ナジやマン・レイが取り入れた。

フォト・デッサンはこのフォトグラムの一種であるが、瑛九は印画紙を新しい種類の画用紙と捉え、光のあて方により色々な「絵」を描くことができることから、画家として「フォト・デッサン(光のデッサン)」と名付けている。

 用いるのは印画紙、現像液、定着液、メートルグラス、写真用バット、暗室用ランプ、型紙等である。

印画紙は光に反応する感光剤が塗られており、光を強くあてると黒、弱くあてると灰色、全くあてないと白色のままとなり、弱い光を長く揺らしてあてるとグラデーションが生まれる。瑛九は感光度が異なる3種類のうち中間のクロロブロマイドを主に使っている。

そして透明なガラスやセルロイドにデッサンしたものを印画紙に置いて光をあてるほか、デッサンしたものを切り抜き型紙とし、型紙をとおして光を遮るなど実験を行っている。セロファンに墨を使って黒く描いた部分を鉄筆で線描を施したり、墨を塗っていない箇所にクレヨンを用いたりしている。深さのある物体や半透過の物体を使ったりもする。

 型紙は切り抜いた方を用いたり、残った周囲の部分を用いたりしている。スケッチブックや薄い画用紙、フォト・デッサンそのものを切り抜いて型紙にしている。このほかフォト・デッサンが確立された1950年から1954年頃には網、レース、植物、針金、光を透過、屈折させることもできるものとして、ガラス棒を利用し、より自由な光の表現を行っている。

 また瑛九は光をあてる道具として既成のペンライトを独自に加工したり、普通の懐中電灯にブリキの筒で先を細くしたカバーを取り付けたりして光量の調節を行っている。瑛九は黒くしたい箇所には、絵で木炭を何度も使うように光をあそばせるとしている。

 暗室での作業前には手順を何度も確認し暗闇で作業可能なようにし、どんな光源を使い、どのような距離、どのくらいの時間で光をあてるか考える。

 池田満寿夫はフォト・デッサンは「光の芸術」であり、それ自身は非常に冷たいが、「非常に温かいリリシズム」と「写真の持つメカニズムを結合させた」として、瑛九のフォト・デッサンを高く評価し、池田自身が非常に好きなものとして述べている。(注・1)

 瑛九は「アトリヱ」(33619552月)で、フォト・デッサンの様々な作品と表現方法を紹介している。その文からは制作、比較、検証の繰り返されていることが分かる。写真の知識の無い読み手に初歩的な事項も説明しており、分からないのは写真材料屋で聞くよう述べ、次のようにフォト・デッサンを薦めている。

 

 しかし画家は心理的には一つのジャンルだけの中で行きつまり描けなくなるものです。その時全然今までやったことのないジャンルの仕事に手をつけて、心理的に自由になることはよくあることだと思います。(中略)出来るだけ色々なものに手を出して実行して自己を発見する方が、自然な気がするのです。(中略)だからフォトデッサンももうすこし画家諸君の実験の場となってもよいと思うのですが。(注・2)

 

 瑛九は生涯を通じ油彩、コラージュ、エッチング、リトグラフなど様々な技法で美を追究しようとしていたが、出品した作品が画壇に認められず失望し、「ハチきれるゼツボウ感」(山田光春宛1935529日書簡)を感じる中、フォト・デッサンに独自の表現を見出した。生涯油彩を続けつつも自己を革新し続けた画家瑛九の歩んだ足取りと情熱が感じられる。

引用文献

1.鈴木泰二編集『対談集 美術家への証言 NHK日曜美術館10』学習研究社, 1979, p.40

瑛九「フォト・デッサンー印画紙を使うデッサンー」『アトリヱ』336, 1955, p.75-78

 

参考文献

瑛九「フォト・デッサンー印画紙を使うデッサンー」『アトリヱ』336, 1955, p75-78

鈴木泰二編集『対談集 美術家への証言 NHK日曜美術館10』学習研究社, 1979, p.35-53

藤森茂次「瑛九芸術についての一考察」『宮崎県立美術館研究紀要』Vol.1, 2003, p2-81

小林美紀「アーカイヴから見る瑛九 書簡・文献・記録をとおして」『宮崎県立美術館研究紀要』Vol.8, 2011, p49-58

山田光春「瑛九伝」『眠りの理由』 創刊号, 1966, p4-52

東京国立美術館編『瑛九 19351937 闇の中で「レアル」をさがす』, 2016, p.147

9 池田満寿夫との縁

(菅 佳代子)

 

昭和301955)年頃、池田満寿夫は芸大(東京藝術大学)に三回落ちていた。池田は、自力で画家になるしかないという状況にあったが、靉嘔(あいおう)を通じて瑛九と出会う。靉嘔(あいおう)、泉茂、細江英公などは「実存者」(実存社という記載の資料もあり)というグループを作っており、既存の美術団体ではない前衛的な考え方をもっていた。

当時、池田が新宿で似顔絵を描き一枚100円で売っていたのを瑛九に怒られたという。瑛九が銅版画、とりわけ彩色の銅版画(エッチング)を勧めたのはこの時期とされる。

昭和311956)年、池田はデモクラート美術家協会会員となる。

瑛九は池田の母親と同年齢の二十歳以上年上で、瑛九にとって息子のようなものだったが、瑛九も池田自身も、師弟関係を嫌い、友だちのような関係で接していた。ミヤ子夫人の回想では、若い芸術家たちが足繁く浦和のアトリエに通ってきては、瑛九と美術の話を延々と続け、終電近くまで長居することが多かった。池田は、夫人の作った漬物の器を空にしたこともあったという。

  池田としては年の差があっても対等なつもりで接し、瑛九もいばったり、自分の権威を押し付けたりすることはなく、お互いに対等な関係で付き合っていた。

ところが、池田はいつの間にか瑛九の影響を受け、それを自覚すると最初反発していた感情からだんだん尊敬に変わっていき、それに対する対抗心のようなものがあり、自由を感じたり、緊張を感じたり、瑛九に対してある種の葛藤を抱えるようになっていった。

池田自身は瑛九から絶交状をもらったのか、自分から出したのか、あまり詳しくは覚えていないが、「あれはぼくの方から絶交状を出したと思うのですけれども。」(注・1)。と語っている。池田はその時期の瑛九について、若い者の啓蒙が面倒くさくなったのか、もっと自分の絵に集中したくなったのか、だんだんお互いに影響を受けていくのを意識してか、関係が離れていったという。

ミヤ子夫人の述懐でも、昭和321957)年頃から瑛九は若い頃に熱中していた油絵に再び取り掛かるようになり、それまで付き合いのあった若者たちとも疎遠になっていったと振り返っている。

瑛九自身は経済的に厳しい状況にあったにも関わらず、「創造美育協会」(昭和271952)年結成)の代表者・久保貞次郎に自分のことよりも、靉嘔(あいおう)や池田のことをしきりに推薦していた。  

久保を通じて瑛九と知り合い、7年にわたる文通を続けた人物に福井県の教師、木水育男がいる。木水は久保の影響で「創造美育協会福井支部」を結成するが、彼に感化されたメンバーで、昭和331958)年に「瑛九油絵頒布会」を結成する。

その年の5月、池田から「僕は毎日砂糖水を飲んでいます」と書かれた葉書を受け取った堀栄治(創造美育協会福井支部の木水育夫の教師仲間)は同年、大野の喫茶店で「池田満寿夫のエッチングとリト」展を開く。その後も池田の作品購入を呼びかける活動を行い、靉嘔(あいおう)と池田の版画の頒布会が作られたとされる。

昭和351960)年3月、瑛九が急逝する。通夜に駆け付けた池田満寿夫は、すぐに瑛九のデスマスクを描きはじめ、そのスケッチブックは6人の絵の仲間に手渡されたという。

久保が結成した「創造美育協会」の活動は瑛九亡き後、靉嘔(あいおう)が引き継ぐことになる。久保貞次郎の呼びかけにより、創造美育セミナールでは時折デモクラート会員の作品オークションが行われていたが、売り上げはそれほど芳しくはなかった。久保は「よい絵を安く売る会」を発足させ、その活動の一環として、靉嘔(あいおう)や池田満寿夫の版画の頒布会も作られ、彼らが注目されるようになる。昭和331958)年、靉嘔(あいおう)は渡米し、池田は次第に版画が注目されるようになる。

瑛九が兄の影響で始めたエスペラント語を通じて久保と出会い、久保とデモクラート美術協会のメンバーが繋がった縁であり、靉嘔(あいおう)や池田は活躍の場を広げることが出来たと言える。

 

 

引用文献

1.池田満寿夫述「純真な魂」『対談集 美術家の証言(NHK日曜美術館10)』学習研究社, 1979, p37

 

 

参考文献

池田満寿夫述「純真な魂」『対談集 美術家の証言(NHK日曜美術館10)』学習研究社, 1979, p35-50 

埼玉県立近代美術館 大久保静雄 長谷川てい編『瑛九とその周辺』読売新聞社, 1986, 127p

渋谷区立松濤美術館編『瑛九 前衛画家の大きな冒険』, 2004, p.176

ときの忘れもの/有限会社ワタヌキ編『福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み-中上光雄・陽子コレクショ

ンによる-, 2015, p.95




10   木水育男(福井)との縁
(菅 佳代子)  
  (1) 久保貞次郎の影響力

昭和101935)年、瑛九は兄の正臣を通して日本エスペラント学会の特派使節だった久保貞次郎と知り合う。翌年、瑛九が上京し、久保の家や久保を通じて知り合った長谷川の家を交互に滞留するなどして次第に親交を深めていった。

昭和271952)年、久保は美術教育の方向性について意気投合した北川民治、瑛九らと美術教育団体「創造美育協会」を設立する。小中学生の創造主義美術教育運動をすすめ、美術教育に情熱を傾ける教師たちを対象に、創造美育セミナール、児童画の公開審査会「久保賞」を創設。その際の審査員に瑛九もおり、昭和261951)年、瑛九らが結成した「デモクラート美術協会」を支援する。瑛九は、自分のことを売り込むよりも自分より若い靉嘔(あいおう)、池田満寿夫らを久保にしきりに宣伝していたと言われている。

 

 (2) 久保貞次郎と木水育男との出会い

久保の掲げた美術教育運動に初期の段階から関わっていたのが福井出身の木水育男氏である。木水は昭和2 41949)年、教育誌『6-3教室』附録に掲載された「児童画の見方」で久保を知り、文通を始め、昭和251950)年2月、久保宅を訪問している。

木水は彼に影響を受けた福井のメンバーと「創造美育協会福井支部」を結成する。メンバーたちはやがて、久保が提唱する「小コレクター運動」に傾倒していき、その運動は瑛九を中心に、靉嘔(あいおう)や池田満寿夫らデビュー前の作家たちを支援する形で進められ、福井に熱心な小コレクター運動が広がっていった。

 

 (3) 木水育男と瑛九との出会い

  福井県で教師をしていた木水育男は、昭和281953)年1月、久保の紹介で初めて瑛九宅を訪れ、児童画運動の友として紹介される。翌年の昭和291954)年4月、木水が福井から内地留学で上京し、久保と会うようになると、瑛九のアトリエにも頻繁に通うようになる。同年、久保のコレクションによる「西洋版画展」とデモクラート会員による「日本前衛版画展」が巡回し、その巡回先の一つ、福井で久保、瑛九の座談会があり、その席上で木水は瑛九の作品を購入予約することになる。

久保に影響を受けた木水は、福井で創造美育運動や小コレクター運動に積極的に参加するようになる。これらの運動が盛んになってくると、福井創造美育協会のメンバーたちと瑛九が昭和261951)年に設立した「デモクラート美術協会」の会員との関係がより親密になる。

『前衛画家の大きな冒険 瑛九』によると、木水育夫は瑛九と頻繁に手紙のやり取りを行っていたが、瑛九から木水に宛てた手紙は瑛九が亡くなるまでの7年間で94通にのぼるという。木水が内地留学をしていた昭和291954)年1年間の手紙は抜けているが、瑛九から木水へ送った手紙の多くは木水氏の没後、妻のクニオ氏がまとめた『瑛九からの手紙』に収められている。

 

 
 (4) 瑛九を支えた福井の人々

 瑛九は昭和321957)年頃から油絵の制作に専念するようになり、6月には「デモクラート美術会(昭和261951)年結成」を解散している。

昭和331958)年1月4日、木水をはじめとする福井創造美育協会のメンバーたちが瑛九宅を訪ね、毎月10号の油彩を110か月間福井に送ることを決め、「瑛九油絵頒布会」を結成する。木水らは毎月の作品に代金を支払ったり、頒布会で瑛九の作品を販売したりして、こうした収入が瑛九の晩年の生活を支えたとされる。

頒布会結成の背景には、木水らが瑛九から油彩画制作に専念したいという意向を聞いたこと、経済的に苦しい瑛九の生活を憂慮し、定期的な収入が瑛九の生活の糧になれば、という配慮があったものと思われる。

 

 

(5)  瑛九亡き後、福井での創造美育活動

      昭和351960)年310日、木水に影響を与えた瑛九が永眠する。同年57日、木水は福井県福井市繊協ビルにおいて「福井瑛九の会」主催で「瑛九遺作展」を行っている。

参考文献

福富健男著『画家・瑛九の世界』鉱脈社, 2011, p.199

渋谷区立松濤美術館編『瑛九 前衛画家の大きな冒険』,2004, p.176

瑛九美術館 木水クニオ編『瑛九からの手紙』P・Sプランニング/編, 2000,p.209

福井県立美術館『福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み-中上光雄・陽子コレクションによる-,2015, p.95

 
11 瑛九と読書 

 (川上 奈央子)

 

 (1) 瑛九の愛読書

    瑛九の父・杉田直は、眼科医のかたわら俳句にも没頭、俳号を作郎と称し自ら俳句結社を立ち上げ、俳人としても全国的に名を知られた人物である。偉大な父をもつ瑛九の家にはたくさんの書物があり、読書環境にも恵まれていた。

瑛九の兄・杉田正臣は、瑛九の読書姿を

 

瑛九が非常な読書家であったことは、大抵の人々が知っていたと思うが、私の記憶の中では、彼は 若いころは、読んでは売り、その金で又新しい或いは古本の欲しい本を求めて、かいこが桑の葉をたべるようにむさぼり読んだ。(註・1)

 

と延べ、瑛九の愛読書や瑛九の死後、ミヤ子婦人から譲り受けた瑛九の蔵書を列挙している。
それらをジャンル別に分けると次のようになる。

 

    ロシア・ソビエト文学
『ドストエフスキー全集』

『ツルゲーネフ全集』

『ゴーリキイ全集』

『チェホフ全集』
『トルストイ全集』
 
ベルジァエフ『ドストエフスキーの世界観』

     イリヤ・エレンブルグ『人は生きることを欲している』

     ショーロホフの『静かなドン』

英米文学             

ヘンリー・ミラー『冷房そう置の悪夢』(新潮社)

ジェムス・ジョイス『ユリシーズ』(新潮社) 

フランス文学

     『アンリ・ミショオ詩集』

芸術・美学
ハーバート・リード『モダンアートの哲学』(みすず書房)

     『ロダンの言葉』

ジョン・リオルド『セザンヌ』

ボラール『ルノワール』

      中国・日本文学
『唐詩選』『論語』『孟子』『万葉集』

『おくの細道』『一茶俳句集』『良寛詩集』

志賀直哉『暗夜行路』

徳田秋声『縮図』

永井荷風『冷笑』

『夏目漱石全集』『森鷗外全集』『二葉亭四迷全集』『内村鑑三全集』『西田幾多郎全集』

      

エスペラント語訳になった各国の文学
プーシキン『吹雪』『オネーギン』『大尉の娘」』
ゴーゴリ『監察官』
シェイクスピア『ハムレット』『アントニオとクレオパトラ』『ロミオとジュリエット』

                『ウィンザーの陽気な女房』『トロイラとクレジダ』『マクベス』『テンペスト』

                『リア王』『真夏の夜の夢』『ペニスの商人』『お気に召すまま』

ゲーテ『タウリスのイフィゲニ』『ファウスト』

シラー『群盗』

ハイネ『バハラハのラビ』

オルジェシュコ『マルタ』

セルマ・ライエルリョフ(スウェーデンの女流ノーベル受賞作家)『イョスタ ベルリング』

ミッキェヴィチ(ポーランドの国民詩人)『タデオ氏』

シェンキェヴィチ『クオ・ヴァディス』

       アンデルセン童話集

 

このほか山田光春は瑛九が山田に宛てた手紙には、読んだ本の一節を書き写したり、読んだ感想などが記されていること、また、瑛九が64頁にわたって85名の作家別に275の書名・その訳者・発行所を記録した「フランス文学日本蔵書目録」と書いたノートが遺されていることについて紹介している。

 

 このうち、瑛九が「友人」と言い「天才ども」といっている作家・作品名を挙げる。

       ボオドレエル『悪の華』『巴里のゆううつ』『審美渉猟』『感想私録』

     マルセル・プルウスト『愉しみと日日』『プルウスト文学評論』『スワン家の方』『花咲ける乙女の陰に』『ゲルマントの方』

     アンドレ・ジイド『狭き門』『田園交響楽』『背徳者』『イザベル田園交響楽』『法王庁の抜穴』『女の学校』『偽金づくり』『地上の糧』『一粒の麦もし死なずば』『ソヴエト旅行記』『ソヴエト紀行修正』『芸術論』『エルハヂ』『日記』『アンシダンス』

      ポール・ヴァレリイ『作家論』『作家論Ⅱ』『現代の考察』『ドガダンス デッサン』『固定観念』

『ヴァリエテⅠ』

     ジャン・コクトオ『雄鶏とアルルカン』『コクトオ詩抄』『恐るべき子供達』『声』『白紙』『阿片』『わが青春記』『世界一周』『オルフエ』

      レエモン・ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』

      ほか冊数の多い作家

スタンダール、アンドレ・モーロア、エミール・ゾラ、アナトール・フランス、ロマン・ローラン、ピエール・ロチ、ポール・ブールジエ、ジョルジュ・デュアメール、ドウデエ、ポール・モオラン、モーパッサン、フランソア・モオリアック、ジョルジュ・サンド、ジュール・ロマン、アラン、プロスペル・メリメ、テーヌ、ディドロ、ヴォルテール

 

(2) 瑛九にとっての読書

瑛九が子供のころから瑛九が読書に夢中になっていたことがわかるエピソードがある。

 

小学校時代の或る日、僕は小説を読み耽けるということで教師から手酷く叱られた。僕は泣き出し、 泣き止まずに帰路に就いた。雨がざあざあと降っていた。僕は世の中がひっくり反れば良いと思うほど腹立たしかった。小説を何故読んではならないか、まったく判らなかった。おそらく教師も知らなかっ たであろう。(注・2)

 

瑛九の甥の杉田幸雄は、「彼は小学校にもあまり行っていなかった、自分のしたいことと違う教育をされるのが嫌だったろう」述べている。
 瑛九の読書活動は学校生活では認めてもらえるものではなかったが、10代で文筆の才能を開花させている。絵よりも文筆が先に世に出た。
 13歳の時に、童謡や童話の雑誌『金の船』に投稿した童話「山の中の豪傑」が掲載されている。15歳になると、美術雑誌『アトリヱ』や『みづゑ』に次々と美術評論を投稿し、「画事雑考」「槐樹社展を観る」などが掲載される。編集者は10代の少年の手によるものとは思わず後に知り驚いたという。
 1950年代に入ると、瑛九は集中的に版画に取り組むようになるが、この版画の技法は、書物から得たものである。『アルス美術講座(版画篇)』を参考に実験を重ね、銅版画の制作に結びつけたと思われる。 この銅版画の技法は、後に『やさしい銅版画の作り方』と題して、浦和の小学校教師・島崎清海氏と共著で出版している。この本は、これから銅版画を始めようとする若い人たちや、銅版画を教室にとり入れようとしていた教師たちの指針として重要な役割をはたしたものであると記述されている。
 彼の人生において、自分が知りたいことは人から習うより、書物から学ぶ方を選び、習得することができたのは、幼少の頃からの読書で自分の世界観をしっかりと構築することできていたからだろうと思う。みんなと一緒の習慣に抗うことはかなりのエネルギーを要したと思うが、自分を貫き通す強さと、周りを魅了するものがあったのだろうと思う。

    


引用文献

尾崎正教編『眠りの理由』瑛九の会,1966, p46

山田光春,『瑛九 評伝と作品』青龍洞,1976, p.52  

※ 瑛九「思い出」立正大学新聞(19387月)

 

参考文献

小林美紀「アーカイヴに見る瑛九」『宮崎県文化講座研究紀要』第三十八輯, 2011

テレビ宮崎「自由と独立の芸術家「瑛九」」(ひむかの群像)

杉田正臣「思い出すことなど(二)」『眠りの理由』No.2, 1966, p 45-48

山田光春「瑛九伝」『ねむりの理由』創刊号, 1966, p4-521.尾崎正教編『眠りの理由』瑛九の会, 1966



12 参考:瑛九の父 杉田直(なお)氏の句碑 
  (福田 泰典)
杉田直句碑 
 

  杉田作郎の句碑(宮崎神宮東神苑)

「柿の赤さはつゝみきれない」の1句が刻まれた歌碑。
歌碑の背面(写真下)には、荻原井泉水が送ったその人となりを伺い知ることができる碑文が刻されている。
 杉田直句碑

 

杉田作郎句碑裏面      
                 
杉田作郎句碑裏面


参考2:その他瑛九の作品を検索できるリンク集
 みやざきデジタルミュージアム
 ジャパンサーチ


参考3:人物相関図の参考文献

人物相関図(宮崎編)参考文献(50音順)

【瑛九】

・埼玉県立近代美術館,大久保静雄,長谷川てい編,『瑛九とその周辺読売新聞社美術館連絡協議会,1986, p.127

・山田光春,『瑛九 評伝と作品』青龍洞, 1976, p.478

・久保貞次郎編『瑛九画集』瑛九画集刊行会, 1971, p.89

・高野明広・小林美紀・大久保静雄・梅津元・山田志麻子編『生誕100年記念 瑛九展』,宮崎県立美術館・埼玉県立近代美術館・うらわ美術館・美術館連絡協議会, 2011, p.292

・本間正義監修,『瑛九作品集』日本経済新聞社, 1997, p.203

・福富健男,『画家・瑛九の世界』鉱脈社, 2011, p.199

・島崎清海編,『太陽を求める向日葵』文化書房博文社,1978, p.347

・「巻頭特集」『版画芸術』第112, 2001, p.4779

【加藤正】

 ・「広報くしま」No.1012, 201681日号, 4-5

・宮崎この人企画「特集 瑛九を語る 加藤正」, 2011年(宮崎この人, No42

 ・宮崎県,「加藤正」みやざきデジタルミュージアムhttps://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/details/view/569

(参照2021.12.10

【北尾淳一郎】

 ・鈴木素直「画家・瑛九の世界特に北尾淳一郎との関係について」『宮崎県地方史研究紀要』第二十二輯1996, 125-143 

 ・佐々木明子,「北尾淳一郎資料について」『北尾淳一郎紀要原稿』,2018年〕, p.1-3,

  https://www.miyazaki-archive.jp/bijutsu/box/zuroku.html(参照2021.12.10

【塩月桃甫(とうほ)】

 ・宮崎県立美術館・上田雄二編『塩月桃甫展』宮崎県立美術館, 2001, p.221

・宮崎県,「塩月桃甫」みやざきの百一人,https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/068/068.html2021.12.10参照)

・宮崎県,「塩月桃甫」みやざきデジタルミュージアム

ttps://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/details/view/578(参照2021.12.10

 

【杉田家】

 ・杉田正臣『父/暁天/瑛九抄』鉱脈社, 2000, p.400

・高野明広・小林美紀・大久保静雄・梅津元・山田志麻子編『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館・埼玉県立近代美術館・うらわ美術館・美術館連絡協議会、2011, p.292

【杉田都(ミヤ子)(旧姓・谷口)】

・『対談集美術家への証言』学習研究社,1979, p.206 

・埼玉県立近代美術館・大久保静雄・長谷川てい編『瑛九とその周辺』読売新聞社美術館連絡協議会,1986, p.127

 ・久保貞次郎編『瑛九画集』瑛九画集刊行会, 1971, p.89

・「巻頭特集」『版画芸術』第112, 2001, p.74-77

 

【鈴木素直】

  ・鈴木素直を本にする会編『鈴木素直』本多企画, 1989, p.223

・宮崎この人企画「野鳥は生涯私の友だち 鈴木素直(野鳥研究家), 2013年(宮崎この人No.34

 

 【富松良夫】

  ・南邦和『南国のパンセⅡ 宮崎きのうきょう―私の地方文化論』鉱脈社, 1979, p.123-134

・宮崎県「富松良夫」みやざきの百一人,

https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/065/065.html(参照2021.12.10

【山田光春(こうしゅん)】

 ・鈴木素直「画家・瑛九の世界特に北尾淳一郎との関係について」『宮崎県地方史研究紀要』第二十二輯,1996, p.125-144

 ・山田光春『瑛九 評伝と作品』青龍洞, 1976, p.478

【湯浅英夫】

南邦和『放送対話集 宮崎 19681971鉱脈社, 1972, p.302

 

人物相関図(県外活動編)参考文献(50音順)

靉嘔(あいおう)】

・楠見清編『虹のかなたに 靉嘔 AY-O回顧 1950-2006』福井県立美術館・宮崎県立美術館,2006,p.203

・埼玉県立近代美術館 大久保静雄,長谷川てい編集『瑛九とその周辺』,読売新聞社美術館連絡協議会,1986, p.127

・刈谷市美術館 収蔵作品データベースhttps://jmapps.ne.jp/kariya_art/sakka_det.html?list_count=10&person_id=14

(参照2021.11.24

【池田満寿夫】

・埼玉県立近代美術館 大久保静雄,長谷川てい編集『瑛九とその周辺』読売新聞社美術館連絡協議会,1986, p.127

・『対談集美術家への証言』学習研究社, 1979, p.206 

・池田満寿夫『思考する魚』番町書房, 1977, p.302

【泉茂】

・埼玉県立近代美術館 大久保静雄,長谷川てい編集『瑛九とその周辺』読売新聞社美術館連絡協議会,1986, p.127

・東京文化財研究所「泉茂 日本美術年鑑所載物故者記事」東京文化財研究所

 tobunken.go.jp/materials/bukko/10631.htmw?s=泉茂(参照2021.11.24

 【北川民次】

・島崎清海編,『太陽を求める向日葵』,文化書房博文社,1978, p.55-101

  ・東京文化財研究所,「北川民次 日本美術年鑑所載物故者記事」東京文化財研究所,

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10035.html(2021.12.18参照)

【海老原喜之助】

・東京文化財研究所「海老原喜乃助 日本美術年鑑所載物故者記事」東京文化財研究所,

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9443.html(参照2021.12.18)

【オノサト・トシノブ】

・埼玉県立近代美術館 大久保静雄,長谷川てい編集『瑛九とその周辺』読売新聞社美術館連絡協議会,1986,P.127

【木水育男】

・福富健男著『画家・瑛九の世界』,鉱脈社,2011,p89-91

・渋谷区立松濤美術館編『瑛九 前衛画家の大きな冒険』,2004,p150-154

・瑛九美術館 木水クニオ編『瑛九からの手紙』,P・Sプランニング/編,2000,p138

・福井県立美術館『福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み-中上光雄・陽子コレクションによる-』, 2015, p.95

【久保貞次郎】

   ・埼玉県立近代美術館 大久保静雄,長谷川てい編集『瑛九とその周辺』,読売新聞社美術館連絡協議会,1986, p.127

・久保貞次郎編『瑛九画集』瑛九画集刊行会, 1971, p.89

・福井県立美術館『福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み中上光雄・陽子コレクションによる-』, 2015, p.95

・久保貞次郎について/真岡市公式ホームページ,https://www.city.moka.lg.jp(参照2021.11.20

【島崎清海】

 ・島崎清海,『太陽を求める向日葵』,文化書房博文社,1978, p.347

・山田光春,『瑛九 評伝と作品』青龍洞, 1976, p.478

【玉井瑞夫】

 ・渋谷区立松濤美術館編『瑛九 前衛画家の大きな冒険』, 2004, p.176

【外山卯三郎】

・東京文化財研究所「富山卯三郎 日本美術年鑑所載物故者記事」東京文化財研究所,     

    https://www/tobunken.go.jp/materials/bukko/10284.html(参照2021.12.18)

【長谷川三郎】

・埼玉県立近代美術館 大久保静雄,長谷川てい編集『瑛九とその周辺』読売新聞社美術館連絡協議会,1986, p.127

・東京文化財研究所「富山卯三郎 日本美術年鑑所載物故者記事」東京文化財研究所,

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8921.html(参照2021.11.20)

【細江英公】

・埼玉県立近代美術館 大久保静雄,長谷川てい編集『瑛九とその周辺』読売新聞社美術館連絡協議会, 1986, p.127

【奈良原一高】

・東京都写真美術館,『日本写真家事典』,淡交社, 2000, p.241

・美術手帖「奈良原一高が逝去。「人間の土地」や「王国」で大きな足跡残す」(headline 2020.1.20, https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21205(参照2021.12.18