西 暦 |
| 年 齢 |
| で き ご と |
1799 | | 1才 | | 1月1日、清武町中野に生まれる。 |
1812 | | 14才 | | 懐中に常に1冊の経書を持ちながら、家業の加勢をしていた。 |
1814 | | 16才 | | 四書・佐伝を読み、家の書をすべて読み尽くしてしまう。 |
1817 | | 19才 | | 和歌や和文を廃して、中山寺で読書・漢籍に専念する。 |
1820 | | 22才 | | 都於郡を訪れて紀行「志濃武草」を書く。大阪の篠崎小竹に入門。 |
1824 | | 26才 | | 江戸の古賀庵に入門して、昌平校に入寮する。 |
1826 | | 28才 | | 古賀塾を退く。江戸藩邸勤番を命ぜられ、藩主祐相の侍読を兼ねる。 |
1827 | | 29才 | | 清武明教堂の助教授となって、教育に尽力する。 |
1829 | | 31才 | | 宕陰明教堂記を作る。双石山に登り、紀行「南山霞標」ができる。 |
1831 | | 33才 | | 飫肥振徳堂の助教となる。藩命により九州を巡遊し「観風抄」を書く。 |
1832 | | 34才 | | 振徳堂子弟の教育に当たる。 |
1835 | | 37才 | | 父、滄洲が息軒の剛直を慎むように遺言して死去する。 |
1838 | | 40才 | | 官を辞して浪人儒者として江戸へ行き、「東行日抄」を書く。 |
1841 | | 43才 | | 三計塾を開始する。藤田東湖に初対面をする。 |
1843 | | 45才 | | 江戸藩邸で、月に数回程度の論語会読を始める。 |
1846 | | 48才 | | 文会が盛んにあり、社約を作って各人の自宅を回り会長を務める。 |
1849 | | 51才 | | 上州の蚕業を視察し、飫肥で養蚕製糸の講習を始める。 |
1852 | | 54才 | | 飫肥や清武に種痘を公に施行するよう働きかける。素堂記を書く。 |
1853 | | 55才 | | 水戸斉昭が藤田東湖を介して、時事について問う。 |
1854 | | 56才 | | 蝦夷論を著して、開発の必要性を主張する。 |
1865 | | 67才 | | 養蚕私録序を書く。 |
1869 | | 71才 | | 明治新政府より仕官を勧められたが、病を理由に辞して著述に努める。飫肥藩の臣籍に入り、身分は家老上席で祐帰の師範となる。 |
1872 | | 74才 | | 「論語集説」全刻が出来あがる。 |
1875 | | 77才 | | 熊本県知事の依嘱によって錦山神祠改建記を書く。 |
1876 | | 78才 | | 9月23日死去 |