西 暦 |
| 年 齢 |
| で き ご と |
1848 | | 1才 | | 宮崎郡加納村(現清武町)に生まれる。父茂平は飫肥藩の勘定方。 |
1854 | | 7才 | | 郷校「明教堂」で勉学に励む。 |
1870 | | 23才 | | 家督を継ぎ、清武会所(今の役場)に勤める。 |
1872 | | 25才 | | 加納の戸長となる。 |
1873 | | 26才 | | 宮崎県の創設とともに県職員となる。 |
1876 | | 29才 | | 宮崎県が鹿児島県に併合後、鹿児島県の県職員となる。 |
1877 | | 30才 | | 2月、西南戦争が勃発するとともに退職し、旧藩士とともに西郷軍に加わる。 |
| | | | 9月、戦後、鹿児島県宮崎支庁に勤務する。 |
1878 | | 31才 | | 県職員を辞職する。 |
1880 | | 33才 | | 那珂・宮崎郡から鹿児島県会議員に当選する。 |
| | | | 国会期成同盟の一員として名を連ね、「国会開設の建言書」を太政大臣に提出する。 |
| | | | 分県請願書を鹿児島県令に提出するも拒絶される。 |
1881 | | 34才 | | 「分県建言書」を元老院、内務卿に提出するとともに、上京し、折衝に当たる。 |
| | | | 伊藤博文に面会するなど分県のために奔走するが、請願書は却下される。 |
1883 | | 36才 | | 県会議長に選出される。「分県県議案」を、鹿児島県会議長という立場で内務卿に提出する。 |
| | | | 5月、政府が宮崎県再置の布告を出し、宮崎県が再置となる。 |
| | | | 宮崎県議員に当選。9月、第1回通常県会において議長を務める。 |
1884 | | 37才 | | 5月、退職して宮崎・北那珂郡の郡長となる。 |
1890 | | 43才 | | 宮崎県初の衆院議員に当選する。以後衆院議員を5期務める。 |
1892 | | 45才 | | 2期目衆院議員当選。 |
1894 | | 47才 | | 3期目当選。 |
1903 | | 56才 | | 4期目当選。 |
1908 | | 61才 | | 5期目当選。 |
1910 | | 63才 | | 居を東京に移す。 |
1912 | | 65才 | | 衆院議員を辞する。 |
1914 | | 67才 | | 11月、宮崎市にて死去する。 |